今から約150年前の1870年に日本初の靴工場「伊勢勝造靴場」が東京・築地に誕生しました。70年〜80年周期で、価値観や世の中の構造が劇的に変わるといわれており、靴産業も軍需の75年、民需の75年を経て、次の75年への歩みを進めています。
プロフィール紹介
城 一生(たち いっせい)
大学卒業後、靴の月刊専門誌「靴業界」(現・フットウエアプレス)に就職。1996年に独立し、「シューフィル」を設立。靴にフォーカスしたカルチャー誌の出版や、イベントの企画などを行い、現在も靴のジャーナリストとして精力的に活動を続けている。
1869年に陸軍が正式な軍装として洋靴の登用を決めたことで、日本における靴の産業化が進みました。1945年の終戦後には婦人・子供靴などの多品種少量の生産、靴のファッション化により、靴の需要はさらに広がっていきます。そして現代(2020年代以降)において、靴産業はターニングポイントを迎えていると語る、城さん。
──城さんが感じる、靴産業に起きている変化とは。
時代的にも平成から令和に変わって、それは単に元号が変わっただけのように見えるかもしれないけれど、不思議なもので、節目をきっかけに時代も変わっていく。たまたま昭和の終わりから平成を通じて、「ヨーロッパの伝統」に「日本の職人技」を継木して靴を作っていくということが、ブームとまでいかないけど、それなりに評価されて、それに憧れる人が増えていた。
しかしながら、まさに平成が終わる頃というか2018年以降ちょっと変わってきた。いくらやったところで、ビスポークの靴であったり、手作りの靴のマーケットが広がるわけでもない、と考える人が増えた。食っていけるかどうか、ビジネスになるかどうかわからないけど、私はそこに賭けますとか、好きだからなんとか自分で頑張ってやっていきます、という熱量が2000年代にはあった。
でも2010年代後半くらいになると、食っていけない、マーケット的に先があんまり見えない、さらに言えば靴づくりって5、10年修業して初めて日が当たるみたいな世界。そんなまどろっこしいことやってられない、今日やったら明日答えが出るような、(ネットの世界とかそんな感じがするんだけど)、パッと脚光が当たるところに行きたい、という世間的な状況がある中で、靴づくりに憧れを持つ人がどんどん少なくなってきちゃった。そんな中で今にきてる。
──伝統工芸品は「日本の美」「日本の気候・風土」を取り入れて、日本独自の「文化」を継承していると、城さんは考える。
靴履物の日本文化といえば、下駄(げた)や草履(ぞうり)などの開放型の履物や、玄関に入ったら靴を脱ぐ、という行為が古くから継承されてきた。それは「伝統」に値する。しかし、日本における靴は工業製品としては素晴らしいなと思うけれど、まだまだ伝統と呼べるものではない。150年ってのは伝統に値するかもしれないけれど、一般的に流通している靴は「日本の靴」ではなく、「ヨーロッパ発祥の靴」を指す場合がほとんどであり、靴の形の正解として絶対視されてる側面もある。でも僕は、本当にそうかな?と思う部分もあるし、みんながみんな「ヨーロッパ発祥の靴」を作る必要はないとも思っている。
──昔からあるものを漠然と作り続けても「伝統」にはならないし、マーケットも広がっていかない。
靴づくりでいえば、今の超近代化した世の中で、あえて手で作っていく、革の良さを味わっていく、ということは人間的でもある。ものにこだわる、ものを大切にする、良いものを愛でるとか、そういう点では革靴は素晴らしいし、手作りであなたの足にぴったりの靴を作って50万円、100万円頂戴します、っていう方向性は分かんないわけではないです。そこは半分くらい僕も頷くんだけど。
手で靴を作る職人たちは褒められれば褒められるほど、職人気質が高まってより細かくとか、こんな技術を使って、、とかそういう方向にいっちゃう。それは一部の人たちや靴マニアには必要なものとして残っていくかもしれないけれど、そこを突き詰めたからといって、世間の関心が向くわけでも、需要が広がるわけでもない。さらにいえば、あまりに暮らしから離れてしまうと、徐々に需要はなくなるし、博物館を相手にするしかなくなってくる。
一方で、メーカー側は「売れなきゃ話にならないよね」ってことで、日本の気候風土や暮らしであるとか、日本の美みたいなことろに関心を払わずに、外国のデザイン展や見本市に行って、「今はこんなデザインが流行っている、じゃあこれを日本でも取り入れよう」といった新作をシーズンごとに打ち出すことが多い。
そんなこんなで、日本独自のデザインとか、日本人の暮らしを取り入れた「日本の靴」を生み出そうっていうムーブメントが職人からも、メーカーからも出てこない。この流れが続いて行けば、マーケットは広がっていかないし、マーケットが広がらなければどんな技術も廃れていく。そう言った意味でも、今の日本の靴産業はターニングポイントを迎えていると思う。
──日本の伝統から「文化」を抽出して、一つのポイントを継承していくことも必要なのでは、と語る城さん。
例えば漆とか、生花とか、お茶とかね。古くから続く伝統の何かを、日本固有の文化を残していく、といった考え。日本にとって必要不可欠なものっていうのは伝統工芸品として残ってきた。それは一部の分野、一部の人たちにとっては必要なもの、重要なものとして、これからも残っていくと思うし、それと同じように革靴も、手作りの靴も残っていくというのはありかなとは思う。
でも「伝統」は、まるまる全部ではなくて、ある部分(一部分)しか残っていないこともある。例えばお茶碗とかだって、「有田焼とか益子焼でお米を食べる」という行為は、一部では残っている。でも日本人の大半は、日常的に有田焼とか益子焼のお茶碗を使ってお米を食べているわけではないじゃない。
一方でいくら西洋化が進んだからといってお茶碗自体がなくなることはない。「お米を食べる」という日本の文化、一つのポイントを引き寄せて、新しい素材や形を考えて、新たなお茶碗を生み出してきた。いわゆる伝統工芸品じゃなくて新たな工業製品として生み出され、そこでのいろんな研究開発の成果で新しいものができているし、食器のマーケットが広がっている。それと同じようなことが靴産業でも起きてこないといけない。
──「伝統」の解釈は、時代によって変化するものである。
伝統工芸品にしても、本当に生活に必要ないものって残っていないと思うんだよね。人間が二足歩行であるかぎり、靴履物も無くなることはないと思うけれど、日本人にぴったりの、日本人の生活に必要な靴っていうのが、これから生まれてほしい。軍需の75年、民需の75年の次は「日本の靴」を生み出す75年になってほしいな、と。
そのためには、いわゆるこれまでの「伝統」と言われてきたスタンダードな型や常識に疑問を持つことも必要で。「素材は革じゃなきゃダメなの?」「今の時代に本当に必要なの?」「現代の生活、日本人の生活にマッチしているの?」といったことも考えていくべきだと僕は思っているし、時代によって「伝統」と呼ばれるものの解釈は変わるものだとも思っている。
──本当の作り手ともなると、そんな簡単に右から左でパッと作れるものじゃない。
「日本の靴って何だろう」って真剣に考えて、いろんな情報を入れたり、いろんなキャリアを積んだり、あっち行ったり、こっち行ったりして、吸収する。それこそ伝統工芸のいろんな場所に行ったりしてね、金沢行ってあれを見たとか、東北行ってあれを見たとか、そういう風に考えを磨いていって、ある時ふっと閃いて「よし!」って言って形を作っていく、素材を使ってみる、っていう過程があって初めて、作り手オリジナルの「日本の靴」ができるものだと思うんだよね。
そんなこんなで、作り手オリジナルの「日本の靴」を追求する人が増えていけば、靴や靴づくりの周辺にも光が当たってきて、少しずつマーケットが広がっていくし、靴産業に活気が生まれてくると思う。これからの75年で「日本の靴を作ろうぜ」っていうようなムーブメントが起きれば嬉しいですね。
最後までご覧いただきありがとうございます。
「伝統工芸分野・産業の状況、革靴業界のそれに随分と似通っていると感じました。」と語る、城さん。伝統工芸産業がベンチマークすべき産業の一つとして、これからの靴産業の取り組みは外せないでしょう。私たちが生きる「これからの75年」に「日本の靴」は誕生するのか、、楽しみですね!
伝統工芸産業に携わるみなさんも、今どのフェーズに位置するのかを一度立ち止まって整理し、現代の生活にマッチした「日本の伝統工芸品」について考えを巡らせてみてはいかがでしょうか。
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