肥後象がんとは?
肥後象がん(ひごぞうがん)は、熊本県熊本市で受け継がれる伝統的な金工技法です。鉄の地金に細かな刻みを施し、そこへ金や銀を打ち込んで模様を描く「象嵌(ぞうがん)」の技術で知られ、特に黒く錆びた鉄地に浮かび上がる金銀の装飾が重厚な美を醸し出します。
もとは鉄砲や刀の鐔(つば)など、武具の装飾に用いられたこの技術は、細川家の保護を受けて洗練され、「肥後金工」として全国的に高く評価されました。現在では、装身具や文房具、茶道具などにも技術が応用され、時代を超えてその美しさと技が息づいています。
品目名 | 肥後象がん(ひごぞうがん) |
都道府県 | 熊本県 |
分類 | 金工品 |
指定年月日 | 2003(平成15)年3月17日 |
現伝統工芸士登録数(総登録数) ※2024年2月25日時点 | 6(9)名 |
その他の熊本県の伝統的工芸品 | 小代焼、天草陶磁器、山鹿灯籠(全4品目) |

肥後象がんの産地
武家文化の薫る地、錆びの美を育む熊本の風土

主要製造地域
肥後象がんの主産地は、熊本県熊本市です。阿蘇山や金峰山に囲まれたこの地は、豊かな地下水と温暖多湿な気候に恵まれ、鉄を意図的に錆びさせる象がん技法にとって理想的な環境を備えています。湿度が高いことで錆の進行が安定し、美しい黒錆の発色を生み出すことができるのです。
江戸初期に加藤清正によって築かれた熊本城を拠点に、細川忠興・忠利父子が藩主として治めるようになってから、熊本は武家文化の中心地として発展します。この中で鉄砲鍛冶や刀装具職人たちが保護され、技術の研鑽が進んだことで、肥後象がんは洗練を極めていきました。
また、細川家が文芸・美術を庇護したことにより、職人たちは刀の鐔や鍔に留まらず、美術的価値の高い作品づくりへと昇華していきました。地元の熊本市現代美術館や細川コレクションなどには、現在も多くの名品が収蔵されています。
肥後象がんの歴史
細川家が育んだ、肥後金工の名声
肥後象がんの起源は、江戸時代初期にまでさかのぼります。戦国時代の武器職人である鉄砲鍛冶たちが、銃身や鐔に装飾を施したのが始まりです。
- 1632年:細川忠利が熊本藩主に就任し、鉄砲鍛冶・林又七を召し抱える。象がん技術が藩内で体系化される。
- 1650年代:父・細川忠興の庇護のもと、林家を筆頭に肥後金工の名工が輩出。鐔・小柄・目貫など刀装具に意匠を凝らす文化が定着。
- 1700〜1800年代:林、西垣、平田、志水、神吉といった五家の職人が技を競い、象がんの高度化と芸術性が飛躍。
- 1876年(明治9年):廃刀令により武具の需要が激減。以降、象がん技術は装身具・文具・茶道具へと応用される。
- 1955年(昭和30年)前後:米光太平が人間国宝に認定。田辺恒雄らとともに継承活動に尽力。
- 2003年(平成15年):肥後象がんが経済産業大臣より「伝統的工芸品」に指定される。
- 現在:熊本市を拠点に、少数の職人が伝統技術を守りながら、新たな表現や海外技術との融合も模索している。
肥後象がんの特徴
漆黒の地に咲く、金銀の意匠
肥後象がんの最大の特徴は、黒い鉄地に金銀が浮かび上がる重厚な美しさにあります。この黒色は塗装ではなく、地金をあえて錆びさせて生み出されたもので、「さび出し」という特殊な工程によって酸化鉄の深みある色合いが得られます。
さらに、この技法が表現する意匠には、唐草・桜・牡丹・鳳凰などの古典的な文様のほか、現代的な幾何学模様や動物モチーフなども見られます。すべての工程を一人の職人が手がけるため、図案から仕上げに至るまでに個々の感性が強く反映され、同じ題材でも表現は千差万別です。
また、象がんに使用される「鹿の角」も特筆すべき道具の一つです。金銀を優しく打ち込むのに適しており、金属を傷めずに地金に定着させることができます。これは、硬さと柔軟性のバランスを持つ鹿角ならではの特性が生かされた知恵とも言えるでしょう。
「お茶で煮る」ことで錆止めと黒色の定着を図るという化学的かつ自然な工程も、肥後象がんならではの美意識を象徴しています。金属工芸でありながら、自然と調和する工程を重んじている点も、この技法の奥深さを物語っています。
肥後象がんの材料と道具
金属と向き合う、静かな格闘の道具たち
肥後象がんの製作では、地金となる鉄や象嵌材の金銀、細やかな彫刻・加工を施すための専門工具が用いられます。
肥後象がんの主な材料類
- 鉄:地金として使用。錆びを美に変える土台素材。
- 金・銀:象がんに用いる貴金属。主に打ち込み用に加工されたもの。
- 茶葉:錆止め処理に使用される自然素材。タンニン成分で化学反応を促す。
肥後象がんの主な道具類
- 鑢(やすり):鉄地の表面を研磨し、下絵を描く準備を整える。
- タガネ:布目切りを施すための鋼製工具。縦横斜めに溝を彫る。
- 鹿の角:金銀を柔らかく打ち込む際に使用。
- キサキ:布目の余分を削って滑らかにする鉄棒。
- 金槌:金銀表面を均す仕上げ用工具。
これらの道具を巧みに使い分け、鉄と金銀を一体化させていく過程には、緻密な計算と長年の経験が必要とされます。
肥後象がんの製作工程
武家の美意識を刻む、錆と輝きの製作工程
現在主流の「布目象がん」技法を中心に、肥後象がんの製作工程を紹介します。
- 下絵描き
鉄地を鑢で磨き、筆で模様の下絵を描く。 - 布目切り
象がんを施す部分に、タガネで布目状の細かい刻みを縦横斜めに入れる(4方向)。 - 打ち込み
下絵に沿って金銀を鹿の角で打ち込み、鉄と密着させる。 - 布目消し
金銀の周囲に残る布目をキサキで削り滑らかに整える。 - 叩きしめ
金槌で金銀を丁寧にたたき、光沢と平滑性を出す。 - 毛彫り
模様に陰影や表情を加えるため、金銀部分を彫る工程。 - 錆出し
鉄地に錆液を塗り、火にかけて焼く工程を複数回繰り返す。 - 錆止め・焼き付け
煮出した茶液に漬けて化学反応を起こし、黒錆を定着させる。仕上げに油を塗り焼きつける。 - 磨き仕上げ
表面を刷毛や布で磨き、完成させる。
肥後象がんは、鉄と金銀という素材の対話から生まれる、静かな品格と深い意匠を湛えた工芸品です。400年の伝統を受け継ぎつつ、時代に即した新しい表現にも挑戦し続けています。日本の美意識と職人の魂を象徴するこの技術は、現代の暮らしの中にも確かに息づいています。
